あの日の天気を覚えていない。
あの日何をしていたのか
ただスマホをぼんやり眺めて
たった一行を何度も繰り返し
理解できない言葉を読み返し
心の中で反芻し
受け入れられない一行の数文字に
困惑し 手が震え 頭が真っ白になった
あの日
あの日の空を覚えていない。
◆ ◆ ◆
「ねえ、5号室のおばあさんの枕元にある写真って誰なのかな?」
新人看護士の凜が同僚の日向に話しかけた。
「さあ?子供さん?旦那さん?誰だろ。」
日向は興味なさそうに逆に質問してきた。
「あのおばあさん、子供さんいないんじゃなかった?入院してから誰もお見舞いに来ていない気がする。」凜は電子カルテの訪問者履歴を覗いてみた。
やっぱり入院して2ヶ月未だ空欄のままだ。
「時々、話しかけたりしてるんだよね。すんごい優しい笑顔で」
「凜、気になるの?だったら聞いてみれば良いじゃん」
「そこまでは。ねぇ。」
院内では入院患者のプライバシーへの配慮が厳しくなっている
この写真どなたですか?と聞こうものならヒステリックに怒る人だっている
親族に至っては訴えを起こす人だっている時代だ
患者さんへは今日のお天気や食事を取ったかどうか、そのくらいしかコミュニケーション出来なくなっているのが楽だと考える看護士もいるだろうけれど、退院の見込みのない患者へは話のネタも尽きてしまう。
お薬は飲みましたか?具合はどうですか?熱はありませんか?だけでは少々空振り気味の仕事だと凜は感じていた。ましてや患者はくるくると入れ替わる
医療の進歩だとかで、長く生きてしまう時代だ。平均寿命は延び続け義体の進化も凄まじい
寿命が延びたところで孤独な老人が増えただけだという社会問題も露になっている。海外からの移民に世話をさせようとした政府は日本がずっと豊かな国だと考えていたんだろうか。当てにしていた諸外国こそ自国の老人の世話に取られてしまい。人が人を介護するどころではなくなり、義体化し、自立して生き延びるか本人の希望で寿命を終えるかどうか決められる妙な世界になってしまっている。
死のうと思えば誰にも遠慮なく消える事が許される時代
だからこそ、出来るだけ穏やかに過ごしたいとここのようなホスピスが乱立している
◆ ◆ ◆
ナースコールは5号室からだ
(どうしたんだろう。さっき熱を測りに行った時の様子はどうもなかったのに)
個室のドアを開け凜が少し息を整えて聞いた
「どうされましたか?」
ベットを少し立て背もたれにしたおばあさんは少し微笑んでいた
手にはあの写真立てを持っている。
「どうされましたか?」
凜はベットの側に行きもう一度聞いてみた。
「あのね。桜が見たいの。」
「桜咲いてるかしら?」
「サクラ、、ですか?」
「ここの窓からは海しか見えなくて。」
海に面したこの5号室からは確かに桜の木は見えない
「外出許可、取れるかどうかわからないのですが」
凜は申し訳なさそうに伝えた
「そう。」おばあさんは俯いて写真立てを見つめていた
「一緒に桜が見たかったのだけれど..」
このホスピスに入ってくる患者は半年持つかどうか。
くるくると患者が入れ替わっている事を凜は知っていた。
目の前の患者が来年の桜を見る可能性がほぼない患者であることも。
「院長に聞いてみます。ただ、ご希望に添えるかどうか、、」
「ありがとう。そうしてくださる?」
おばあさんは申し訳なさそうに、だけど少し嬉しそうに微笑んだ。
「失礼します。」
5号室の扉を静かに閉め、凜は思った
絶対に外出許可を取らなくては。
◆ ◆ ◆
「あ、見えてきましたよ」
非番の日向がハンドルを握りながらルームミラー越しに話しかけてきた
「ほんとだー。綺麗。今日がちょうど満開なのかも!」
凜の大きくハシャグ声におばあさんは少し微笑んだ
子供達の居ない校庭の桜はほぼ満開だった。
どの地域も子供がいなくなり小学校は閉鎖されたまま廃墟になってしまった。
ここは凜のお気に入りの場所でもある。
患者を看取った後には必ずこの校庭で家に帰るまでの時間を過ごすのだ。
一週間前に来た時は1,2輪咲いていた桜は今日は満開だ
おばあさんの車イスを桜の木の下へ案内し、凜と日向も一緒に空を見上げた
桜の花びらが風に乗って舞っている
「見て。ほら、綺麗...」
おばあさんがひざの上に置いた写真に話しかけるように呟いた。
大粒の涙が零れ落ちた。
凜がハンカチを差し出すとおばあさんはありがとうと受け取り
桜を見上げながら優しい声でぽつり、ぽつりと話し出した。
わたしが若かった頃、とても好きな俳優さんがいたの。
天使のような笑顔に、仕事の疲れを癒してもらっていたのね。
彼は生き方も美しかった。
正直で真っ直ぐで努力家で若い頃から夢を持っていた方なの。
あの日突然訃報が流れてね
彼は遺書も残さず1人で旅立っていった。
それからはずっと泣いて暮らしていたの。
元気出さなくちゃと思っても無理だった。
それなのに、お腹が空くのよ。
変でしょ?悲しくて苦しくて、それでも喉も渇くしお腹も空くの。
そのうち、少し笑ったり出来るようになるの。
そんな自分が嫌で嫌でたまらなかった。
彼を失ってずっと悲しいはずなのに、こんなふうに生きている自分が嫌でたまらなかった。
ずっと彼の事だけを思っていたかった。
いっその事仕事もせず、家に篭って死のうと何度も思ったの。
その度に彼が夢に出て来て微笑むの。元気出して。笑ってよ。って
その姿はいつも桜の花びらに包まれてたの。
わたし、長く生き過ぎてしまったのかしら。
◆ ◆ ◆
凜は誰もいなくなった5号室の窓を開けた。
海風が心地よい季節になった。
おばあさん、この窓から見える海が好きだって話してた事があったな。
波音を聞きながら凜は思い出していた。あの桜の木の下で聞いた話を。
大好きな俳優さんが亡くなっただけで、あんなに悲しむものなのかな。
わたしには、わからないな。
おばあさんは今朝起きなかった。穏やかな寝顔のまま。
凜は帰り道小学校の校庭に立ち寄った。
あの時、おばあさんが話してくれた事を思い出しながら今は葉桜になった木の下で空を見上げた。
長く生き過ぎてしまったのかしら。そう呟いていたおばあさん。
ずっと恋をしていたのかな。少しうらやましい気もするな。
「凜。やっぱりここにいた。」
日向の声に振り向いた。
「大丈夫?」
「慣れてるからね、大丈夫よ。朝起きなかった。それだけ」
「そっか」
二人で見上げていた空は夕焼けから夜に変わる前、桜色に染まった。
「綺麗だねー。」
「おばあさん、今頃彼と出会えてるのかな」
「調べたんだ。あたし」日向が意外な事を言い出した。
「何を?」
「セキュリティ高かったんだけど、あったよ。あの写真の顔の人の記録」
「見てみる?」日向に言われて凜は首をふった。
「患者さんのプライバシーへは踏み込まない主義なんだ。あたし」
「そっか」
「そうよ。」
「じゃあ、これ。見てみて。」
日向がカバンから取り出したのは、DVDと昔呼ばれていた銀色のディスクだ。
「なにこれ?君に届け..」
「青春物だぜ。それも胸がきゅーっとなるやつ」
「実らない恋って、この世界中に沢山あって。それでも次へ行けちゃう人がいて。でもずっと思い続ける恋もあるんだなって。あの時知って羨ましくなっちゃった。」日向の横顔が最高に可愛かった。
そう、わたし達は生きていて。誰かを好きになる事がある。
だけど、その好きを一生貫ける人ってどれくらいいるのだろう。
たとえ亡くなったとしても、その思ってくれる人の中で生き続ける事が出来る。なんて素敵な事だろう。
長く生き過ぎてしまった。なんて思わないで欲しい。
その時間分だけ、好きな人が一緒に生きていたんだから。
ずっとずっと心の中で輝いて生き続けていたのだから。
◆ ◆ ◆
最後を迎えるにあたって、どのようなホスピスをお望みですか?
パソコン画面に出てきた問いに答える
「海が見える部屋」
そうして決めたこの部屋からは海が見える。
あの日、わたしの時間は止まってしまった。
それでもこんな年まで生きてしまった。
せめて最後は彼が好きだった海の側で
沖を目指してサーフボードを抱えて走りながら飛び込み
楽しそうに波に乗って帰ってくる彼を
波音を聞きながら、
あの日のように
ずっと待っていたい。