似合わない洋服は捨てました

気まぐれに気の向くままに

お盆なので

おばあちゃんのお話。
父方のおばあちゃんは漬け物屋さんをしていて
(そのころ、おじいちゃんは何やってたのか不明。いつも友達が来ていて
長いキセルにたばこの葉っぱを詰めて煙りを吹き出し花札打ってた。爆)

一緒に住んだのは少しだけだったけど
おばあちゃんは可愛がってくれてたんだと思う。
会うと、いつもほっぺたがつぶれそうなほど撫でてくれて
お前は可愛いなぁ。って、そう言ってお小遣いくれてた。

大阪と大分と離れてしまって、一度高校生の夏休みにおばあちゃんの住んでるアパートで寝泊まりして
小中学校の時の友達を尋ねてまわったことがあった。

大阪の下町だったので、お風呂は銭湯に行く訳だけど
おばあちゃんはいつも朝風呂で
行くと、おばあちゃんのお友達という人達から「大分から来た孫はこの子か?1人で来たんやて?えらいなぁ」と声をかけられて
そのお友達の方々はわたしにお小遣いといって、手にお札を握らせてくれた。
困っておばあちゃんの顔を見るとにこにこしていて「もらっとき」と言ってくれた。
(きっと、おばあちゃんもそうしていたんだろうと、今になったらわかる)

それから、夜はおばあちゃんの大好きなプロレスを小さなテレビで見た。
おばあちゃんはプロレスを見ると、とにかく、猛烈に元気で
テレビの前でいけー!とか叫んでた。

お漬け物屋さんをたたんでからは、少ない年金で暮らしていたんだと父から聞いたことがある。
確か、一緒に暮らす為に家を買った時、ほとんどはおばあちゃんが出したということも。
おばあちゃんはうちのおかあちゃんが大嫌いだったから、1人でその家を出て行くことになるのだけど。

それからもうずっと疎遠になってしまったおばあちゃんが入院していると聞いたのは
わたしの娘が幼稚園の夏腸管出血性大腸菌O-157だと病院の先生は話していた)で入院していた時だった。
娘の病気は助かったとしても人工透析を一生しなくては。と伝えられてた。
(今思うと、病院の先生は一番最悪な場合を伝えてくれたのかもしれない。気が動転していて本当のことを言うと、この頃の先生とのやりとりはあまり覚えていない。)

ある朝、先生から呼び出されて、○○さん娘さんの検査結果がとても良好で、これなら月末には退院できますよ。でも、何故だろう。不思議だなぁ。と、そうおっしゃっていたのは記憶にある。

そのころ、携帯電話なんてなくて、
娘を見舞いに来てくれた父がとても心配してくれていたので、まっ先に病院の公衆電話から父に電話した
「そうか、良かったな。昨日おばあちゃんが亡くなったらしい。お父ちゃんは葬式に行ってくるけど、おまえは無理するな。娘のそばにおっとけ」

おばあちゃんはガンだったそうで、お見舞いに行く事もなく
泊まりに行った時にフェリー乗り場まで見送ってくれたのが最後に見たおばあちゃんになってしまった。
舟に乗る前に、ガーゼのハンカチをプレゼントしたらすごく喜んでくれてぎゅーってしてくれた。
また来いや!そう言って手を振って見送ってくれた。小さくなるまで。


守護霊と言うものが存在するとすると、娘にはうちのおばあちゃんがついててくれてると思う。
それから、時々わたしにも。
そうして見守ってくれているんだと思う。
お墓は奈良にあるらしいので、まだ行った事がないのだけど
いつか娘と一緒に行きたいと思う。