似合わない洋服は捨てました

気まぐれに気の向くままに

2,000文字前後 登場人物3人

noteに書いた物語です。

 

 

タイトル お気に入りの...

 

ボクの暮している町に、年老いたマスターがひとりで切り盛りしている小さな喫茶店がある。マスターはいつも白シャツに黒ベストと黒い蝶ネクタイ。少し寂しくなってしまった白髪を後ろで小さく一つ結びにしている。小洒落た人だ。


ここは少し変わっていて、店内に置かれているテーブルと椅子はデザインがばらばら。その全てに目立たないように値段が貼り付けてある。どうやら販売もしているらしい。通って観察していると時々売れてしまうのか、新しい椅子やテーブルに出会えることも気に入っている。そして、二ヶ月毎に耐用年数なのかどうか、少しずつ値段が下げられていることにも気付いた。

 

 ボクは、週末にこの店でランチを取り、マスターの淹れた珈琲を飲みながら本を読むことが楽しみだった。
といっても、長居は迷惑という常識も持っていたので、マスターが「失礼します。」と水のおかわりを注いでくれてから10分までと決めていた。

 毎週せっせと通い、さまざまな椅子の座り心地を楽しみながらのランチはボクの週末に彩を与え、ついに「これだ!」という椅子にめぐりあった。

それは、肘置きつきのソファーで座り心地はもちろんのこと、体を預ける傾き具合、ソファーを覆っている生地の手触りから柔らかさ全てがボクの好み、というよりも体にぴったりだった。ランチを食べ終えて本を開くとマスターがこなければ何時間でも座っていられるような心地よさ。
そっと値段を探すと肘置きの裏に小さく60,000と書かれていた。

60,000かあ。買えない値段ではないけれど 手狭な1DKの部屋には少し大きいな。とこの椅子に座るたびに考えていた。

 

 ある週末、ボクは今日も本を一冊小脇に抱え店に入った。
あいにくその日はボクのお気に入りの椅子に女性が座っていたので、適当に別の席を選び腰を下ろした。ランチを終え、チラリと見るとその人はまだ座っていたので仕方なく本を開く。ちらちらと、文字から目を離しその人が立ち上がるチャンスを伺っていた。残念ながらこの日はマスターの「失礼します。」から10分経ってもその人が立ち上がる気配はなく、店を後にした。

 次の週も、その次の週も、同じ人が先にボクの椅子に座っている。

 とても残念だな。せっかくお気に入りを見つけたのに。部屋に戻ったぼくは「いっそ買おうか」と部屋を見渡した。1DKの手狭な部屋だけど、ベットを処分すればなんとかなるだろう。

 

 お気に入りの椅子を見つけてから3ヶ月が経った週末。ボクはいつものように本を一冊小脇に抱えてその店のドアを押した。
いつもより、少し早めに家を出たのが幸をそうしたのか、その椅子にはまだ誰も座っていなかった。さっそくその椅子に座り、あれからずいぶん経ったはずだから、少しは値段が下がっているかなと気になり肘掛の裏を覗き込んだ。

 「いつも占領してしまってごめんなさい」

そこには値段ではなく、小さな小さなメモが貼り付けてあった。

ボクは不思議に思い、マスターがメニューを持ってきた時に尋ねた。

「実は、お客様が毎週この椅子に座ってくださっていたのに、座れなくなってしまって少し落ち着かない様子でしたので。差し出がましいとは思いつつ、お声をかけさせていただいたんですよ。」

マスターが言うには、そんなにこの椅子が気に入った方がいらっしゃったのですね、と女性は少し申し訳なさそうに、でも「わたしも、とても気に入りました。」と笑顔で答え小さなメモを書いてマスターに渡したのだという。
受け取ったマスターはなぜかそれを肘掛の裏、値段の上から貼り付けた。

 ランチを終えたボクはこの日ばかりは本を開く気にもなれず。その人が買う前に買おうか、どうしようか。と目を瞑って思案し始めた。さて、どうするか。その人も気に入っているということは、いつかこの椅子がこの場所からなくなってしまうかもしれない。ボクが買えば、でも...

目を瞑って考えていると、「あの」と女性の声がした。
目を開くとその人はボクの隣にしゃがんでいた。
「この椅子、もしかして買ってしまわれるのでしょうか」
その声は少し寂しそうに聞こえボクはピンときた。
ボクの椅子にいつも座っている人だ。


「いえ、今どうしようか迷っているところです。なんせ、部屋が狭いもので」とボクは少し照れながら答えた。椅子を置くために広い部屋に引っ越せばいいのだけれど、そうまでしてもと思っているボクも確かにいたから。


「そうですか。まだ迷っていらっしゃるのですね。」女性は少し笑顔になり
「実は、わたしもこの椅子が大好きで、先日マスターからお伺いした時に買ってしまおうかと考えたんです。でも、ここで過ごす時間も大好きですし。迷っていて」

「いらっしゃいませ」とマスターがお水とメニューを持ってそばに立っていた。「どうぞ、おかけください」と女性にボクの真向かいの別の椅子をすすめ「お2人に気に入っていただき、僕も嬉しいです。もし、お2人がよろしければこの椅子は値段を外し「売約済み」とさせていただくことも可能ですが。いかがでしょう。」とチャーミングなウインクをした。

 それから、この椅子はボクとその人の「予約席」になり、もう一つ2人のお気に入りの椅子が見つかった今はボクたちの少し広くなった部屋にある。